春に思っていたこと
この文章は、2023年の春に「ゲンロン15」への寄稿のために書いたもの。当時は、母の加療が進み、さまざまが満身創痍だったのだけれど、ご依頼を受けた直後にわたし自身にも病が発覚して、かなり大きな手術を受けることになった。術前に受けた告知は深刻なもので(詳細は長くなるのでいずれまた)、このエッセイがわたしの書く最後の文章になる可能性が本当にあるなと思いながら書き、最後の文章のつもりで書いた。書きながら、上田洋子さんと東浩紀さんの手がける雑誌でよかったな、とも思っていた。あれから三年がたって、いろんなことが変わってしまった。読んでいただけると嬉しいです。
ゲンロン誌からエッセイの依頼をちょうだいして、テーマはとくに決まっておらず、なんでも自由に書いてくれとのことだったので新鮮な気持ちになった。この数年、女性誌などでお題のあることについて書くことはあったけれど、なんについて書いてもよいというのが嬉しかった。これは考えてみればおかしなことで、ネットだってあるのだからいつでも好きなときに好きなことを寄稿でなくても書けばよいのに、そういえば何年も書いていなかった。この仕事をするきっかけになったものはいくつかあるし、どれもゆるやかに関わっているけれど、いちばん大きいのはブログだったと思う。
誰も辿りつけないようなところで、二〇代の半ばから終わりにかけて、毎日せっせと書いていた。若くてままならないものばかりがあって苦しさもあったけれど、いま思えば楽しかったし、一生懸命だったし、振り返ったときにまずこんな感覚について思いだせるのはありがたいことだと思う。書いていたのは詩とも日記とも記録ともつかない文章だった。そして日記といえば、「ある日」で連綿と書き綴っていく『日日雑記』、武田百合子を思いだす。過去にも武田の形式を借りて書いたことがあったけれど、今回もそうしたい。
ある日。ドストエフスキーのことをたまに考える。今日がその日。うろ覚えだけれど、昔に読んだフロイトの『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』にあった「僕はすべてを失うまで落ち着かないんだ」というドスの言葉も一緒に思いだす(ドストエフスキーを省略するとき<ドスト>でくくる人が多いけどわたしはドス)。それからバフチンによるドスの読み解き理論のラズノグラーシエ(以下、ラズ)。
これはドス作品特有のポリフォニーを成りたたせている、登場人物間におけるエネルギーの落差のこと。たとえば、謙遜でも遠慮でもなく、本当に思っていることとして「おれ、頭悪いねん」と発言してみるとしよう。で、それを聞いた相手から「せやな、おまえ頭悪いよな」と言われたら、認めていないわけではないのに(自分で言ったくせに)「うっ」となる感覚はないだろうか。おなじ言葉と内容でも自分が言うのと他人が言うのではなにかが決定的にずれてしまう、異和を生んでしまう、これが「異和=ラズ=うっ」なのである。ドスの登場人物たちは多くこのラズにみなぎっており、もちろん作者であるドス自身にも予測不能なものなので、ラズがまたべつのラズを呼び、うねり、登場人物たちの人生も物語じたいも、思いもよらないダイナミズムを生んでいくことになる。
わたしは一三年くらいまえの夏、このラズを日常生活にちょっと応用してみたことがある。たとえば、わたしの目の位置は平均的な顔つきからすると離れており、そのことで子どもの頃からひどくからかわれもし、思春期の頃には大変なコンプレックスになっていた。その事実によって「わたしは目が離れている」と発話する。で、相手からも「うん、離れてる」とおなじことを言ってもらうのだ。しかしラズは発動しない。これは、かつてあった離れ目コンプレックスを乗り越えられているということとして理解できる。
つぎに、わたしはいま精神的に落ち込んでいるので実感としてもう以前のように作品を書けないのではないかと思うことがある。これは真に思うことであるので「わたしにはもう小説は書かれへん」と発話してみる。そしてそれを話した相手に「せやな、あんたにはもう小説は書かれへんな」とおなじことを言われたとする。すると「異和=ラズ=うっ」が、ほんのかすかではあるけれど発動するのを感じる。自分で発話したその事実を認めてはいるけれど、現状を結論にして終わりたくないという気持ちのあらわれなのだろう。そしてこの反応が、むっとするとか怒りに属するものではなく、やはりあくまで「異和」のエネルギーであるというのが大事なのではないか。そう、たとえば今日の当事者性の——誰にそれを言う資格があるのか問題においても。
それはさておき、ラズはこのように自分が本当には、まだなににこだわってるのか、諦められないのかを、ちょっとわからせてくれることがある。とはいえ、なににこだわっていようが諦められないでいようが、人生はそういう個人の思いや事情などおかまいなしに流れていくだけであり、わたしの年齢くらいになると自分はもはや謎でも興味の対象でもなんでもなく、ただ今を重ねている認識と身体そのものになってくるので、ラズにまつわるあれこれは若い人むけなのかもしれない。
ある日。昨年の秋ごろから左目だけからなにもしないでも涙が流れてくるようになり、このあいだ簡単な日帰り手術を受けた。鼻涙管閉塞症。われわれの涙は眉の下あたりで作られ(知らなかった)、そこから分泌された涙が眼球を潤して、目尻&目頭にある小さな涙点を通って鼻にむかって排水されるのだけれど、この涙点と鼻のあいだの鼻涙管が詰まってしまい涙が逆流していたというわけだ。
ピアスの穴を固定するようにヌンチャク状のチューブの端っこを、上下の涙点から鼻腔に垂らすように繋げて入れて、数ヶ月後に抜去する(いまチューブ入ってる)。手術じたいは眠っているまに終わったけれど、術前検査は刺激的だった。本当に詰まっているのかを調べるために鼻涙管に針を入れてざくざくと刺すのだけれど、目薬の麻酔は効果がそんなになく、どこかが突き破れるのではないかと、思わず「これまじですか」ときいてしまった。
なんでもアジア人はもともと鼻涙管が、つまり涙の排水溝が細く狭いつくりになっていて、欧米人はものすごく大きくて広いのらしい。欧米の人たちが悲しんで泣くときに目をおさえないで大きな音をたてて鼻をかむのにはそうした理由があったのだ。そういえば英語の表現には「目頭をおさえる」というのはあまりないように思う。
ある日。世界にはいくつも位相があるけれど、自分の身体というのはいちばん身近かつぜったいに移動することができない場所のひとつ。わたしは若い頃から養老孟司先生の本を読むのが好きなのだけれど、この二〇年くらいのバランスを見てみると、自分の身体を比較的忘れているとき、つまり社会に気が向いている時期は離れ、文字通り身体的に追いつめられたときに読めているような気がする。多くの読者同様、自然と人工がべつのものであると思えるマジョリティの感覚に、無自覚に安心できるからだろうと思う。
いずれにしても最近に刊行されているものは、ほとんど手を合わせたくなるような、真にありがたい効果が個人的にはある。とはいえ、養老先生は本によってムードが激変するので、しみじみする読後を求めて手にとると本質的なことだけがいっさいのケア視点抜きに展開されている場合もあってダメージを受ける。読書やな。
ある日。カントの『視霊者の夢』をすがるような気持ちで読みはじめ、読み終わった。当時、大流行していたスヴェーデンボリの「視霊現象」をカントが哲学の側からめっちゃ斬る、みたいな内容なのだけど、死後の世界はないぞ、霊魂なんてないぞとカントが詰めれば詰めるほど、死後の世界があってほしいし霊魂もあってほしい、まじでお願い、みたいなカントの思いと願いだけが強く残り響くことになっていて「庭に行って働こうではないか」で思わず胸をおさえてしまった。
ある日。息子が犬と暮らしたいという。昭和育ちの癖で、それをどれくらい欲しているのかその気持ちの強さを推し量ろうとするところがわたしにはあるけれど、考えてみたら、こと生き物にたいしてはそんなことは意味がないのかもしれない。つまり人間関係にも言えるけれど、前もっての欲望の強さと責任感はそんなに相関しないのではないかと思うのだ。それに昔は犬と偶然に出会って暮らしていたこともあったのだし。
わたしは猫と暮らしたことがなく、これまでずっと犬だった。雑種の子が多く、ほかにはミニチュアダックスフントはとても可愛くて、いま大阪にいる五歳の子以外はみんな虹の橋を渡ったけれど、抱っこしたときのおなかのやわらかさ、きらきらとぬれた黒目、足のうらのちょっと濃いめのポップコーンみたいなにおい、寝るところに敷いたタオルのほつれ、ぜんぶ思いだせる。それで、じっさいに犬と暮らすとなると、お世話も大変で、病気もするだろうし、今よりさらに問題を抱えることになるけれど、でもこれは大人の懸念なのである。
子どもと生きるということは、どれだけ大人が大人の思惑や事情を「なし」にできるかが大事で、たとえばこの場合、子どもが犬と暮らして感じる様々なことや一生思いだすことのできる感情や思い出より、優先しないといけないことってあるのだろうか。これについて考えることは、わたしにとって本質的なことでもあって、じつは、本当は、個人の生活の未来というものを確かなものとして想定し、考えても、あんまりしょうがないのではないかという気がする。もちろん確実に負であるだろうものを意図的に残すつもりはないけれど、みな、まとまりようのないものを、ただ生きて死んでいくのだ。生活の蓄積にまつわるあれこれ、宇宙からみれば瞬きのごとき時間であれ、しかしわれわれがともに生きたという思い出にまつわるものなら、今このときの選択の、なにを恐れることがあるだろう。春は、そんなことを思っていた。
初出:『ゲンロン15』
#014
