穂村弘×川上未映子 対談「名前のない世界への扉を探して」前編
穂村弘さんの歌集『水中翼船炎上中』の刊行を記念して対談が行われ、2018年「群像7月号」に掲載されたもの。穂村さんとはこれまで、主に表現における詩性(ポエジー)について数えきれないほど対話の機会をいただいていますが、この対談は印象に残っていて、あるのかないのかわからない扉が一瞬だけ見えたような、そんな気がしました。穂村さんと話していると、世界にはこのような視点からしか触れることのできない部分があり、このような言葉のもとでしか現れない姿があり、自分はそのほとんどを知らないまま死んでいくのだなということをいつも思います。前編・後編にわけてお届けします。読んでいただけると嬉しいです。
■短歌とリアリズムのコード
川上 穂村さんは、漫画家の高野文子さんの新刊が出ると「くるならこい」と思うとおっしゃっているけど、それが凝縮されたような気持ちで、『水中翼船炎上中』を読ませていただきました。十七年ぶりの歌集ということですけれども、この十七年間、断続的に短歌はつくられていたわけですよね。これまでランダムに書いたものを集めて、章立てに振り分けたんですか。
穂村 ざっくり言えばそうですね。再構成したんです。
川上 十数年ぶりに編んで一冊にしたときに、短歌という形式やジャンルに対する理解に、何か変化はありましたか。
穂村 短歌は千年以上の歴史があるんですね。でも、明治の後半から「和歌革新」というのがあって、歌の概念が変わる。それ以降は別ジャンルみたいなところがあります。
岡本太郎のお母さんの岡本かの子は、作家でもありますが、最初は短歌を詠んでいて、「桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり」という歌がある。桜の花が命をかけて咲いているから、それに対峙して、こっちも命をかけて花見するぜ、みたいな気分は今の我々にもあると思うんだけど、たぶんそれ以前にはなかった感覚でしょう。
川上 自意識みたいなものですね。
穂村 そう。我々は自我を持っちゃった後の人間で、今もその連続性の中にある。近代以降の短歌はその感覚に順接したジャンルなんです。一人称で、自分の命に自分の意識が乗っかっていて、自分の目で見たものを書くみたいなイメージです。だから、風邪を引いたという短歌をつくると、「お大事に」と言われちゃうとか(笑)。逆に、ほんとは生きているお父さんが死んだという短歌を普通の文体で書くと怒られちゃう。それはつまり、現実の生身の人間のあり方と表現がパラレルだということですね。それが嫌だと僕はずっと思っていて、何とかそこから脱したいんだけど、意外なほど難しい。
本当は私小説がリアリズムでないように、短歌だってリアリズムじゃないんです。映画なら小津安二郎も「スター・ウォーズ」も同じく現実でない。だけどなぜか短歌では、小津をやると面白いのに、「スター・ウォーズ」をやると面白くない。
川上 それは短歌にかかわる人たちが「実録」に価値を置いていたり、本当のことを知りたいし書きたい、という欲望がベースにあるからなのかな。例えば小説とか「スター・ウォーズ」みたいな映画には、フィクションの強度という物差しがある。でも短歌で「スター・ウォーズ」をやると面白くないのは、リアリズムのコードが強いからですか。
穂村 小説や短歌ならSFでも私小説でも予算は変わらないけど、映画は、私小説みたいな映画を撮るときと「スター・ウォーズ」を撮るときでは予算が全然違うでしょう。莫大な人手と予算をかけるから成立するけど、私小説の予算で「スター・ウォーズ」をやったらつまらないんじゃないかな。
川上 短歌の予算内で最高のパフォーマンスをしようとしたら、生活的なこととか実感とか自意識を詠むことになると。これはいわゆる純文学批判みたいなものにも当てはまるのかもしれませんね。予算が少なくても調達する気もないみたいなところが、ほかのジャンルからは「みんな必死で予算を集めてるのに」と言われるのかもしれない。
穂村さんが脱したいと思ったのは、短歌がそうなりがちな一つの強力なコードというか、この予算内でやっていこうみたいな安心感ですか。
穂村 そうなんだけど、コードそのものに抗おうというのが根本にある感情ではないんです。現実の肉体や命や、我々が与えられた初期設定に順接に書くほうが、抗うよりも面白いなんて不本意だということなんです。
川上 和歌革新が起きる前に書かれた和歌というのは、そういうコードに順接な意識の中で書かれていると思いますか?
穂村 そうじゃないみたいです。和歌を読むと、今我々が感じているほど時間が直線的に感じられていなかったように思える。もっと円環しているというか。でも今の我々は、赤ちゃんから子どもになって、大人になって、年老いて死ぬという散文的な時間の流れに抗えない。それに現在の短歌の形式で抗ったらどうなるんだろう、と夢を見るんです。
僕が川上さんの小説をすごく好きなのは、その問題意識を感じるからで、まだ名前のない世界を強く求めている。それは未知の価値観で、誰も見たことがないからわからないんだけど、たぶん自然科学も求めている。でも、文学には自然科学よりも先にビジョンを提示する可能性があると思いたいんだよね。
■ポエジーを支えるもの
川上 そのイメージはポエジーというものと、すごく密接な関係があると思うんです。
今回の歌集の「あとがき」には、現在の穂村さんのエッセンスみたいなものが凝縮されていると思いました。時間とは何なのか、「今」というのは何か。ポエジーの何をもって価値とするのか。これは詩だとしか言いようがない瞬間と、「今」というものがすごく密接に関係している気がするんですね。
書き言葉、読み言葉というのは、それが出た時点で、書くときも読むときも過去に属する。それが全て「今」に立ち上がる。過去も未来も今に全部立ち上がるという不思議な現象を、私たちは言語によって発見して固定しているんだけれども、でも言葉では絶対捉えられない「今」というものがある。正体のつかめないものを生きているという実感が強くあります。
詩がなぜ必要なのか、なぜ自分は詩を良いものとして認識しているのか、詩とは何なのかということをずっと考えているんですが、穂村さんのこの歌集と一緒に考えてみると、「凝視することによって切り取った『今』というものを見ようとする力そのもの」が、ポエジーとしか言いようがない気がしたんです。
『水中翼船炎上中』というタイトルがほんとにすばらしいんですが、「あとがき」でそれが証明されたというか、私の感じていたイメージが固定された。全ての「今」が同時に存在している世界というのを、私たちはどうやったら知覚できるかわからないんだけど、それを表しているタイトルだと思います。
穂村 ありがとうございます。
川上 あと、サランラップと髪型の歌が印象的でした。時間というテーマとサランラップが肝だという気がして。
穂村 サランラップで包むと、その内部は時間の流れが変わる。少しだけ時間の流れを遅くする装置だから、一種のタイムマシンでしょう。現実の中に、そういうものがあると気になるし、逆に、天国を現実に引き下ろすじゃないけど、天国にも美容師がいるってことは髪の毛は伸びるんだとか。そうすると、やはり時間に類するものがあるのかとか、そういう感覚があるんです。
川上 科学も哲学も、時間に対して異議申し立てをしてきましたよね。哲学者の永井均さんも、これはあくまで私の理解ですが、「私」というものがあってしまったことと「今」は同質の原理と問題を含んでいると。私も個人的には、それらは同じものの別名だと思っていますが、それに対して穂村さんが、文学は一歩先に違うアプローチでビジョンを見せられると言うのは、そのものをロジックや物証で示すんじゃなくて、予兆としてイメージを与えることができるということ?
穂村 そう信じたいということなんだけどね。もちろんロジカルな証明があるわけじゃない。けれども、もしそれが正解なら、人間が表現したものを人間がジャッジするわけだから、そのビジョンがわかるんじゃないか、と。
川上 「ジャッジ」って?
穂村 いわゆる散文的な散文というのは、時間が直線的であるとか、人は必ず死ぬとか、今我々が採用しているメインのビジョンを強化すると思うんです。だから僕は散文的な散文に対して否定的なんだけど、一方で例えばSF的な思考実験とか、スピリチュアルみたいなものも言語表現で、そこではタイムトラベルとか時間は戻るとか並行世界とか、いかようにも言える。でも、それはそれで、僕にとってはどうしても散文的な現実と引き替えにできるほどの実感は伴わない。
川上 スピリチュアルとポエジーはどこで分けられるのかについてもよく考えます。だって、散文も韻文もスピリチュアルな物語もひとしくフィクションなので、その点では優劣がありませんから。
ホーキング博士が降霊してしゃべるとか、前世と来世を設定したりしてスピリチュアルな世界をほんとに生きている人がいるわけでしょう。その人たちと、現代詩を読んで「ここにはポエジーがある」と言っているのは、ある角度から見たらフィクションを楽しむという意味で同じなんだけど、何が違うかというと、まずポエジーにはご利益がない(笑)。あと、批評性ですよね。私たちのポエジーというのは、批評性によってスピリチュアルにないものを担保していると思うんです。
■「名前のない世界」への扉
穂村 僕は元々スピリチュアルへの志向はあると思うんだけど、そっちには行けなかった。何か自分が信じられるプロセスが必要というか。
川上さんの小説では、アプローチが可視化されていて、その先にはまだ名前のない世界がある。そこに自分は憧れを持つ。例えば『あこがれ』では子ども同士の関係が、まだ名前のない世界への扉になり得るんじゃないかというアプローチがあるし、『ウィステリアと三人の女たち』と『愛の夢とか』では女同士の関係性が、扉になり得るというアプローチが繰り返される。つまり、今採用されている名前のある世界というのは、大人の男メインのものなんだということで、これは川上さんが責任編集した「早稲田文学増刊女性号」の問題意識ともつながると思うんだけど。
名前のない世界では、テリーとかビアンカとかウィステリアとか、「新しい名前」が与えられるという発想が繰り返されるよね。それは新しい世界での生の予兆みたいなものだと僕は読んだんです。「愛の夢とか」で、二人の女性がピアノで一曲を最後まで弾き切る時間を共にするというのは、現実的には他愛のない行為かもしれない。でも、それは文章全体の中で見ると、あるミッションのようなものになっていて、こちらの世界ではただそれだけのことだけど、名前のない世界の予兆の中ではとても重要な共同作業に見える。それが成就したとき、二人はくちづけをするんだけど、『あこがれ』では、少年と少女が肩を組むシーンがある。その一時期だけ身長が同じだからというのが印象的でした。それらが何か象徴的な行為として出てくるような。
その世界がどういうものなのかを直接記述することはまだできないから、執拗に掘っていく。例えば「マリーの愛の証明」の中では、看護係の女性は娘を失くしている。でも、彼女にはその娘が見えていて、いつか「べつの仕方」で娘のことを抱きしめることができるんじゃないか、という。この「べつの仕方」って、いったい何なのか。
川上 「べつの仕方」というのがあるんじゃないかと思ってるんです。例えば、穂村さんの今回の歌集を貫いている「時間」という一つのテーマをとっても、私たちは言葉を持っている。一時、二時とか三月、四月とか時間を区切って、寿命は大体四十年じゃなくて八十年か百年とかでしたっけ、言葉を持っていないものたちも老い朽ちていくということを見ている。だから、言語がある、ないにかかわらず、おそらく「ある」があるわけですよね。あってしまっている。
私がいつも言語化できないというのは、言語も含めて、「べつの仕方」、まったく別の認識があるんじゃないかと思ってしまうから。例えばカート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』には、トラルファマドール星人というのが出てくるんですね。私たちが知っている万里の長城は、じつは彼らが用意した仲間への緊急連絡用のメッセージだったとか、そういうまったく違う可能性というか、認識を示してくれるものが散文でも稀にあります。でも、もしそれが本当にあったとしても、おそらく私たちがそれにアクセスすることはできない気もしている。
穂村 「べつの仕方」を一番痛切に人が願うのは、大事な人が死んだときだと思うんです。
川上 そうですね。
穂村 だから短歌には「挽歌」というジャンルがあるんだけど、本当にもう取り返しがつかないのかと気が狂うほど考えるのは、例えば赤ちゃんが死んだときで、実際の小説の中でもそうだよね。川上さんの「十三月怪談」でも、人の死というものを通して、今我々が認識しているものがすべてなのかということが執拗に問われている。
「ウィステリアと三人の女たち」の最後のテンションがバーッと上がっていくところでは、好きだった外国人女性の赤ちゃんが死んだのは、自分が彼女との赤ちゃんを望んだからだという、散文的にはあり得ないロジックで、つまりそれは時間も混乱しているし、生殖の原理も超越している。でもそこには確かな因果関係があるということを、今の我々の言語表現とは違う、川上さんだけの言語表現で、ある説得力を持って一瞬、成立させる。そしてその門をくぐった後、直線時間の男性原理の日常に彼女は帰ることができなくて、そのことがある種の読者にたまらない解放をもたらし、ある種の読者に恐怖を感じさせるということなんだと思う(笑)。
あそこでザーッと上がっていく門のようなものを短歌も目指していて、現在の論理で記述できない、何の論理と言っていいかわからないけど、狂気の論理のようなテンションで一瞬人を説得するみたいなアプローチを繰り返す。それは自然科学とは違うものなんだけど、この小説を読めば、あそこで別物になったということの快楽性や恐怖みたいなものをみんな感じることができる。
川上 でも、そんなふうに快楽とか恐怖とかポエジーをどれだけ集めても、いくら深く愛しても、私たちはみんな死ぬじゃないですか。
穂村 それなんだよね。
川上 それについては、どうしたらいいんですか。全部終わるんですよ。
穂村 短歌をやっているときに体感するのは、それは我々の表現がまだ不十分だからで、ほんとは百点満点で一・四点ぐらいの短歌しかつくれていないから、我々はまだ死ぬ運命なんだとか。満点の短歌がつくれれば我々は不死になって時間も戻せるけど、今まで人類がつくった最高のポエジーは一・四点だから、まだだいぶ足りません、みたいな感じで。
川上 じゃ、穂村さんは、点数を上げていけば終わらない世界にアクセスできると思っているわけ?
穂村 あるいはポエジーを生み出した時点では決まらなくて、これはちょっとスピリチュアルなんだけど、受け手側の準備の問題があって、『ウィステリア』のラストシーンに全人類がめちゃくちゃ強く共振して、みんなが正気のまま気が狂うことができれば、そのとき空が割れて。時が満ちた、と(笑)。
川上 なるほど。時が満ちたときに、世界の裂け目から世界がもう一回生まれてきて、それは私たちが全く知らない「べつの仕方」が支配している世界。すごいスピリチュアルじゃないですか。
穂村 スピリチュアルだね。やっぱり僕の中にスピリチュアルがあるね(笑)。
川上 でも、そんなのは今私たちが言葉で言っているだけで、おそらくない。
穂村 川上さんは、ないと思っているのにこれだけ本気で、開きそうもないドアをガンガン叩くのは何でなんですか。
川上 ふつうのことだから叩いているという認識はないんだけど、この一つの形式があるということが、別の形式の可能性を同時に示していると思うわけですよ。
穂村 どういうこと?
川上 例えば日本語があって、別の言語がある。人間の脳機能とか在り方に適応した、たまたまこのような生物的な条件が整ったときに、一という数字の概念がなぜかわかるようになっている。先天的なのか後天的なのかはわからないけれども、とにかく「私」の概念がある。今、この空間に対して、みんなが1㎥とか2㎥の空間を占めるというあり方や法則を一まとめでAと言った場合、Aがあるためには、A以外のものがないと成立しない。もし「べつの仕方」がないのなら、「この仕方」は成立していないんじゃないかと。
初出:「群像」2018年7月号
#019A
