穂村弘×川上未映子 対談「名前のない世界への扉を探して」後編
※この記事は、「穂村弘×川上未映子 対談 前編」の続きです。
■葬儀の場で革ジャンが着られるか
川上 この歌集にはお母様の死を詠んだ短歌がありますが、亡くなったお母様のことを書くときに、因果も含めて穂村さんの中でお母様が一番大事な存在だったとするなら、その死に対して、「べつの仕方」みたいなものは発動したんですか。
穂村 そこが問われる、という意識はありました。親が死んだときに、急に敬虔になったな、みたいな軽蔑ってあるじゃない(笑)。
川上 誰に対して?
穂村 自分自身に対して。摂理に対して急に順接に、敬虔な態度になったな、と自分に言われたくないけれども、じゃあどうするか。逆の方向にも、書くだけなら何だって書けるわけだよね。でも本当に人が死んだという現実に拮抗する言語表現でなければいけないでしょう。つまり、拮抗する非順接的な表現があるなら、それを選びたい。
川上 敬虔な体験に対して敬虔なものを記述したとしても、それは出来事に見合ってないということですね。
穂村 忌野清志郎が死んだとき、葬儀にみんなが来て弔辞を読んだ。甲本ヒロトは革ジャンで来た。僕だったらどうするだろう。もちろん喪服で行くしかないよなと思った。その話を又吉直樹さんとの対談でしたとき、「もし又吉さんの先輩のお笑い芸人さんが亡くなって、その人がいつ何どきたりともボケろという人だったら、弔辞でもボケますか」という話題になったら、彼はちょっと迷って、「その人のことがすごく好きで、そういう教えだったらボケるかもしれません」と言ってたけれど。
だからこの歌集では、親の死の挽歌のタイトルが「火星探検」というのは通常あり得ないけど、それが僕にとっての精いっぱいのボケであり、革ジャンなんです。だけど、中身は黒いネクタイを締めざるを得ないみたいな敗北感もあって。
川上 革ジャンを着てるふりして、普通に数珠を持ってる、みたいな感じですか。
穂村 革ジャンの中で数珠を握っている(笑)。でも、それが自分の魂の限界だったらしようがない。
川上 何でそこまで革ジャンを求めるの。
穂村 それが表現だと信じてるから。川上さんはそうは思わないの? 川上さんだって、赤ちゃんを電化製品みたいに書いてたじゃない。
川上 まったく思わない。私は赤ちゃんを皮むき器にしたんだけど、なんで皮むき器にすることが、その穂村さんの言う革ジャンに相当するのかが理解できない。っていうか、革ジャンの存在なんて考えたこともない。
穂村 それは楳図かずお級のクリエーターだよ(笑)。同じせりふを楳図さんが言ったんです。東直子さんが『とりつくしま』という、必ず人が死ぬところから始まる連作を書いたとき、作中人物とはいえ死が前提になった物語を書いたから供養した、という話を聞いてびっくりして。
川上 すごくいいじゃないですか。
穂村 それで楳図さんと対談したとき、「僕の友達は供養したんですが、楳図さんは作中の子どもの首をチョン切ったり、考え得る限りの殺し方をするけど、どう思っているんですか」と言ったら、すごくキョトンとした顔で、「考えたこともありませんでした」と。つまり楳図さんは、葬儀の場で革ジャンを着られる魂なんだと思って、憧れた(笑)。
川上 なるほど……でも、革ジャンなんて存在しないよ。だって、革ジャンを着ていくのはパフォーマンスでしょう。それで大事な部分は増減しないよ。
穂村 僕は魂の可視化だと思う。
川上 そんなことない。もちろん革ジャンというのは比喩で、挽歌に「火星探検」とタイトルをつけることも、散文のレベルで「べつの仕方」ということに全部つながる予兆としてあるのは理解できるんだけど。
■写実というシステムへの抵抗
川上 私は全般性不安障害みたいなところがあって、まだ起きてもないことにそれこそ生活に支障が出るくらいに強い恐怖を感じることがあります。現時点で一番恐れているのは子どもが死ぬことなんだけれども、現実に大切な人を亡くされている方はたくさんいるじゃないですか。だから私が同じ体験をしたとしても、そのとき私が感じるだろうことはすべてすでに用意されているわけです。そこから逸脱することを感じることはないと思う。
穂村 短歌で言う写生とか写実というつくり方は、それを前提としたシステムなんです。全ては出尽くしているんだ、だからおまえの脳みその中に頼るな、現に目の前に全てがある、その細部に敬虔な気持ちで意識を投入することが奥義なんだ、という考えなんです。斎藤茂吉の言葉では「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」っていうんだけど。
川上 とくに個人の感情に関連するものなら、すでに世界には全部出尽くしている。その感覚が進んで、過去と今と未来、他人と自分の体験の境目に一瞬だけど、確信が持てなくなってしまうときがある。それはフィクションにかかわる人間にありがちな傲慢さであるとも思うのだけど。
そういうテンションで今回の歌集を読むと、これまで穂村さんは「べつの仕方」への扉をノックするような短歌を紹介してきたし、ご自身もお書きになってきた。でも今回、私から見たら「写実」というのがポンと出てきたときに、ものすごくエモーショナルなものに思えて、これはこれまでの穂村さんの歌から感じられなかったことだったんです。見たままを書いているような歌がいくつかあるでしょう。
「二度三度嚙みついているおにぎりのなかなか中身の具が出てこない」とか。今まで「べつの仕方」でそこを目指すという気持ちで生きてきた、革ジャンを意識して生きている中で、穂村さんはふとこういうものを書くわけですよね。見たままを書くというのは、これまでと何か違う感じがあるんですか。
穂村 見たままは書かないようにするんだよ。
川上 これも見たままではないのか。
穂村 父親と一緒に行動すると、父親と自分の違いをいろんなところにすごく感じるんだよね。例えば、父は洋服を防寒具だと思っているけど、僕は防寒具とは思えないとか。食べ物に関してもそうで、彼は最初の一口から完璧なおにぎりだと思っている。でも僕は、おにぎりの具が重要だから。具がないと、まだ本番に来てない、早く出ろよと思う。だから「嚙みつく」というプアな表現にして、一種の自爆テロみたいにする。そこで敬虔さを排除しにいくんです。
川上 じゃ、常にやっぱり革ジャンを意識しているわけですね。
穂村 そのつもりなんだけど、時々剝がれそうになる。
川上 もう自分から脱げばいいじゃない、そしたら私が捨ててくるよ(笑)。それはさておき、自分の脳みそを超えて写実するという考えに対して、穂村さんはどう思うの?
穂村 とても有効。でも、二つの理由でそれが受け入れられないのね。一つは、我々の身体構造とか、生殖のシステムとか、時間感覚とかは全て所与のもので、造物主の初期設定だ。表現のすべてが、それを受け入れたところから始まって、受け入れたところで終わらせたくない。なんで? という理由を知りたいということ。
もう一つは、造物主の初期設定に、僕からすれば屈辱的なまでに従順なのが今の短歌の写実システムなんだけど、逆に言うと、その強度は神の摂理つまり初期設定に対してオープンマインドであることの強みなんです。とはいえ、それは一つの表現上のコンセプトにすぎない。例えば、短歌の中には「われ」という一人称がよく出てくるけど、これはおかしい。だって「われ」は自分では見えないでしょう。本当の一人称の映画を撮った人がいて、それは鏡に映ったときだけその人の顔が見えて、あとは手とかしか見えない。他人だけが視界に入っている。でも、一人称の映画ってそうなるはず。短歌も同じで、「われ」という言葉を入れちゃうのは本当の主観表現にならないのでは。便宜的なシステムにすぎないなら更新できるはずだ、もっと面白くできるはずだ、ということなんだけど。
実際、百数十年以前は違うシステムで歌を回していたんだから。桜の前に自我が対峙する以前はね。「桜ばないのち一ぱいに咲くからに」というのも人間の主観であって、ただ咲いているだけなのに。
川上 たしかに。私がおにぎりの歌を見たままに近いと感じたのは、ちゃんと読めてなかったね。違うコードが鳴ってたんや。じゃこれは? 「母のいない桜の季節父のために買う簡単な携帯電話」は……。
穂村 それは、かなりそのままだよね。
川上 ですよね。こういう歌は穂村さんは今まであまり書かなかったから、こういうのをすっと書くとき、穂村さんの中での革ジャン基準が一瞬消えたりするということなのかな。
穂村 そっちのほうが面白いとき、しようがないというか(笑)、負けを認めてこれを採用するみたいな。
川上 不本意だけど、これが必要だからということ?
穂村 自分が納得のいく書き方で同じことを書いた歌よりも、たぶんこっちのほうがいいという判断が自分の中であったとき、それはごまかせないから、ここで一敗、みたいな感じになる。だって、母が死んで、父に簡単な携帯電話を買う。ああ、そうか、お父さんはもう年だから難しい携帯電話は使えないんだな、しかも桜の季節で遺された家族の再生のイメージか、わかるわかる、なんて(笑)。
川上 そういうふうに読まれることに耐えられないわけですか。
穂村 死のさだめを共有する人間同士の共感があるだけで、作者も読者もそろって神様に、よしよし、天国に行けばお母さんにも会えて、また三人でごはんを食べられるからな、と。そんなの嫌じゃない?
川上 それなら、この歌を外すということもできたわけじゃない。なんで入れたんですか。
穂村 そのほうがいいと思ったから。
川上 穂村さんの基準で言ったらクオリティーが下がることになるのに?
穂村 歌集は自分がいいと思うものばかりを並べると、全体として味がしなくなっちゃうんだよ。
川上 それは、世界がワンダーで満たされたときにワンダーの価値がなくなるのと同じだね。
穂村 うん。最初から詩として書かれた詩よりも、他ジャンルや或いは表現ですらないものの中に稲妻のように走る詩のほうが「稲妻のように」って、ダサいけど(笑)、よりポエジーの味がするとかも。
川上 わかる。でも、それだったら逆にしないとダメじゃない。例えばものすごい凡庸さの中に一首だけ。
穂村 そこまでする勇気がない。でも、いるね、そういうタイプの書き手。
川上 なるほど。私はすごくいいと思っちゃった、逆に。穂村さんの歌に、これまで感じなかった光の加減があった。私にとっては「母のいない桜の季節」に「携帯電話」と書いていることが、何か「べつの仕方」を想起させるようなノックだったよ。その受けとられ方は不本意ですか?
穂村 いや、しようがない。でも、そのやり方はもっとずっとうまくできる人がいるんです。
■コントロールできないものの価値
川上 実際的な意味で、穂村さんの作品の読み方は、穂村さん自身の魂とか世界に対する姿勢みたいなものとすごく関係していると思う。こんなに歌を読める人が同時につくるって厳しくないですか。だって、自分の書いた作品を、編むときは客観視するわけでしょう。
穂村 だから長いものが書けない。短歌はクシャミみたいなもので、クシャミはコントロールできないから。自分のジャッジや客観視が追いつかないものの安らかさがあるよね。
川上 じゃ、もともと穂村さんが短歌をつくるときというのは、即興に近いの?
穂村 言葉が出る瞬間はそうですね。
川上 私は、短歌みたいに何か形式の中で表現する人の感覚がまったく理解できないんです。何でこんなことができるんだろうね。
穂村 川上さんの文章は盛り上がっていくところで文体が高揚していくじゃない。それと変わらないのでは。「ウィステリア」で主人公の夫が発する問いも、初めは「こんなに遅くまでどこにいたんだよ」という現実的な問いから始まって、徐々に現実のコードから外れていく。で、最後に妻に対して「おまえ、誰なんだよ」と問うから、「おお」となる。それはレトリックといえばレトリックなんだけど、書き手の深い何かに根差したもので、他の人はそうは書けないけど、構造自体は読めばわかる。
川上 穂村さんは、ほかの人の歌を読むみたいに、自作を全部解説できるの?
穂村 大体できると思う。
川上 やっぱりできるんだね。でも歌人がみんなそういうわけじゃないよね。
穂村 表現の本質はもともとブラックボックスで、解説というのはその周りを語ることだけだから。別に短歌に限らないけど、ブラックボックスの部分がなければ存在価値がない。どんなにこまかく刻んでも元の材料に戻せるサラダみたいな詩は駄目で、元には戻せない野菜いためやタクアンみたいな詩がいい。加熱や発酵によって不可逆的な変化を伴うブラックボックスを通過しているからね。批評というのはそのブラックボックス性へのある敬意みたいなものが前提になるわけだよね。作家の存在感というのも、この人の持っているブラックボックスはかけがえがないとか、見えない部分をはかることで感じられるものだと思う。
川上 穂村さんは歌集を編むとき、理想とする方向はあるわけでしょう?
穂村 「これじゃない」ということはわかるけど、「これ」はわからない。作業として最善を尽くしたとしか言えないな。
川上 でも「最善を尽くした」と言えるのはすごいことだと思う。穂村さんの作品はもちろん、その読みに、私はいつも扉の存在を感じます。まだ知らない世界、「べつの仕方」を言語表現として感じているんだと思う。
■言語表現の限界を超えて
川上 ポエジーということに立ち返ったときに、ポエジーにもし優劣とか点数をつけるとしたら、たぶん言語表現って落ちると思うんです。パラフレーズでしかないから。
ポエジーって体験じゃないか。何にも置きかえることができないもの。ぜったいに伝えられないという事実だけが、その存在を証明するようなもの。そのポエジーのもとみたいなものを、なぜか私たちは別のものに置きかえていくことをやめることができない。そしてその工程を踏んでいくときに不純なものもまじっていって、人の目とかも気にして、違うものに変わっていってしまうという感じがすごくするのね。
ポエジーのイデアとは何かといったときに、今この時点ではここにしかないとか、人はほんとに死ぬとか、何かそういうことだと思うんだけど、こういう言葉でしかパラフレーズできない。共有できない。絶対に共有できないことというのがポエジーのイデアだと思います。穂村さんはどう思う?
穂村 僕もそう思うよ。すでに各人の中にある、共有されている感情や共通体験を刺激するような書き方は、次善というか、それ以下のものでしかないと思うけど、それに全く頼らずに書くことはできないという意味で、言語表現の不純さというか、限界みたいなものはすごく感じる。
川上 絶対にほかに置きかえることのできない体験がポエジーのイデアだとしたら、どうやってそこに近づくか。例えば一番シンプルな言葉に置きかえたときに一番近づく、みたいな可能性はない? 光がきれいとか、お母さんに会いたいとか、そういう何も言っていないような、全く凡庸な言葉が近づく可能性はないのかしら。純度が一番高まる瞬間。
穂村 少しメタ的な言い方になっちゃうけど、「マリーの愛の証明」の中で、幼い魂が自分の持てる全能力で扉を開こうとするシーンがあるよね。それがすごく美しい。それはそれ自体が美しいということもあるけど、そこに照れとかがほとんど感じられなくて、善きものとしてそれが祝福されているという感じがして、僕はすごく好きなんです。若い、幼いということはすごく強いことだけど、それが「ウィステリア」のように大人になっていくと、苦しいというか、イタ気持ちいいみたいな感じになっていく。
短歌でも、青春歌は、建前と本音とか、時間の現実性とかから自然に免れていることが多いのね。永遠の光を帯びている。でも、青春は続くわけじゃないから、いつか終わるみたいな体感が生まれて、だんだん有限性の中に組み込まれていく。
川上 例えば私の祖母は九十五歳なんだけど、本人はまだ意識がはっきりしているから、あと五年ぐらいだなとか、大体わかるでしょう。それはどんなふうに受けとめているんだと思いますか。
穂村 僕は、そう思うから死ぬのかなと思ってた。この歌集の「あとがき」に、「言葉を持たない獣や鳥や魚や虫も老いて死ぬことが不思議に思える」と書いたんだけど、彼らは「死」という観念を知らない。それでも死ぬ。ということは、死は言語のせいじゃない。僕は「あと十年はもたないな」という、その心が人を殺すのかと思っていたんだよ。
川上 それは逆引き寄せの法則みたいな感じ? 言語化されたネガティブな意識がネガティブな現実を作る、みたいな。
穂村 あ、そうじゃなくて、可視化されている因果関係だけで考えると、高齢や病気と死は明らかに関係があるでしょう。でも、それはそう見えているだけで、死は特異点みたいなもので、独立した現象の可能性があるんじゃないかと。例えば牡蠣も、鮮度と当たる当たらないは関係ないとかいう。それは面白いなと思って僕は書いたことがあるんだけど、つまり牡蠣はこの世の因果律から独立しているんだ。死は牡蠣みたいなもの。
川上 それもひとつの「べつの仕方」の提示なんですね。
穂村 そういうことだね。まあ、無理のある考え。主流になっている因果律のほうが強くて、自分自身も信じ切れない。
川上 私たちは死んだことがないし死んだ人と話したこともなくて、死の向こう側に関しては、たぶん向こう側も何もないんだろうけど、とにかくそうあたりをつけることも含めて、何も情報がないわけじゃないですか。例えばパスカルは『パンセ』で、神の国があるかないか、どちらも証明できないなら、今生きている自分にとって有益なことを信じるほうがいいのだから、神の国はあると思うことに何のためらいがあろうか、みたいなことを言うのね。たぶん私たちはそれじたいは意味のない現象にすぎなくて、それが終わることにも意味がなくてふっと終わるだけなんだろうけれど、死んだら次の世界があると信じている人もいるでしょう。穂村さんは次の世界を信じられたらいいと思う? もしそう信じられるなら、まあ、今を生き生きと生きられるよね。
穂村 心から納得できれば信じるよ。僕にとっては表現が宗教だから。
川上 でも、どれだけ素晴らしい表現があったって、ポエジーに満たされたって、みんな死ぬんだよ。
穂村 夜、僕が一人の部屋で読んでいたこの本(『ウィステリアと三人の女たち』)の作者は、そんなことは言わない(笑)。
可能性が低いことでも話していて楽しいのは、それが可能性の話だから。僕らの日常の中では既存の世界観が圧倒的に強くて、そもそもそんな可能性の話すらできない。僕はずっと会社に勤めていたから、どうしてみんなはこれよりそれが重要なんだという圧迫感があったんです。
川上 何でみんな、こういうことを話さずに済むんだ、みたいなことだよね。
本当に堪えられない出来事が起きてしまったら、これまでと同じようには生きていけないだろうな、ということをよく考えます。それこそ「べつの仕方」、何かのべつのロジックを自分でつくり上げることでしか、もう現実を生きていくことはできないだろうと。そういう否応のない体験が今の因果律を壊すという可能性もありますよね。
穂村 僕はさっき川上さんが間違えて「人間の寿命は四十年」と言ったとき、えっ、川上さんの世界ではそうなんだ、と一瞬喜びの感情が湧いたんだけど(笑)、その後言い直してしまったから、ああ、やはり現実のリアリティは戻って来るな、と。だから言葉の中でいかに自分が望ましい光をつかもうとしても、現実は常にそうではない。もちろん人生八十年のほうが四十年よりいいんだけど、そういうこととは別に、人間はみんな四十歳で死ぬと本当に信じている人がいることの喜びがある。同じ運命を生きているはずのものが全く違うビジョンを持っていることに希望を感じる。もちろんその世界観が実現する可能性は低いし、無理かもしれないけど、何かの痕跡というか可能性を探りたいというか。
川上 一つのノックとして。
穂村 ポエジーは表現のどの階層に宿るかというと、実際に散文的な意味ではまだ発見されていない世界を書こうとするとき、骨組みの部分は本質ではないとも言えて、むしろ言葉そのものの表面的な流れが重要だよね。川上さんの場合は、そこにすごくポエジーが宿っているんだと思う。骨組みが特異なわけではなくて、言葉そのものが生命だから、その一番上に微細に流れているものの感受が、最も扉に接近した部分なんだと思う。
名前のない世界を、語りの力でリアリティを持って立ち上がらせる。向こうへは行けないけど、扉の匂いをありありと感じさせる。扉に近づくときにポエジーが発動する。同時に、それを支えている川上さんの生真面目さみたいなものも僕は感じる。それは、ある使命を宿すものというか。
詩歌の場合は扉に近づいていくんじゃなくて、その瞬間に幻の扉をつくる感じかな。でも歌の長い歴史の中でも、本当にそれを感じさせるものは少ない。西脇順三郎の「(覆された宝石)のやうな朝」ってフレーズのことを詩人が一生のうちに一度書けるか書けないかの詩句と室生犀星だったかが書いていた記憶があるけど、「覆された宝石」は確か引用なんだよね。
川上 小説も、何百枚書いても「ここが書けて良かった」と思えるのは一行あるかどうかですね。でも、何かに肉薄したというイメージだけは残る。ガラスの扉を破って向こう側へ行けたわけではないんだけど、あれはダイヤみたいに輝いていたと。
この瞬間に誰かと会うとか、舞台を見るとか、夕焼けを見るとか、体験というのは一回性のできごとです。もちろん人生そのものも。そうしたすべてのレベルの一回性に支えられているのがポエジーのイデアで、私たちはそれを変質させたり、穂村さんの言い方で言うと、サラダみたいに野菜を切ったままではなく加熱して、実際に見た以上の、夕焼け体験以上のものをさらに体験させることができるんじゃないか。それを希望と呼んでいいのかわからないんだけど、それを追い求めることじたいが、おそらく私たちが死ぬとか、この世界が終わってしまうという因果律の決定事項を、もしかしたら突き崩す何かになるんじゃないかということだよね。それは祈りと見分けがつかないけれど。
初出:「群像」2018年7月号
#019B
